2021年8月22日(日)礼拝説教 マタイの福音書7章24-29節 「みことばを行う人」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 夏休みもあと10日になりましたね。夏休みは楽しく過ごせましたか?予定していたことは出来ましたか?…宿題は仕上がりそうですか?あと数日のお休み、やることをやった上で楽しんで下さいね。
 私は今年の夏、仕事のお休みにしようと考えていたことが色々ありました。カーペットの洗濯。梅干しを土用干しする。洗車する。他にも色々考えていました。けれども実を言うと、さっき言ったことはどれも出来ませんでした。なぜだと思いますか?それは、思いがけず、ずーっと雨降りだったからです。天気が悪くてどれも出来ませんでした。まさか夏の一番暑いはずの時期にこんなに雨が続くとは! また別のタイミングでやってみようと思いますが、本当に想定外の天気でした。
 私たちは生きていると、想定外の出来事に出くわします。洗濯や梅干しくらいなら大きな問題ではありませんが、これが人生だとしたら大変です。イエス様は、想定外の問題にどう備えるべきかを教えて下さいました。今日は山上の説教の最終回になります。一緒に学んで行きましょう。

 イエス様はお話を聞いていた人たちに言いました。「私のことばを聞いて行う人は、岩の上に家を立てた賢い人のようです。」この人は地面を深く掘り下げて、堅い岩が出て来てからそこに柱を建てました。大変でしたがしっかり立派な家が建ちました。イエス様は続いておっしゃいました。「雨が降って洪水になりましたが、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」
 イエス様はもう一人の話もなさいました。「私のことばを聞いても行わない人は、砂の上に家を建てた愚かな人のようです。」この人は地面を掘るような面倒なことはせず、砂の上に柱を立てて家を作ったのです。こちらも素敵な家が完成しました。見た目は立派で、さっきの人の家に少しも負けません。けれどもイエス様は言われました。「雨が降って洪水が押し寄せると、家は倒れてしまいました。しかもひどい倒れ方でした。

 2人は想定外の雨と洪水が無ければ、何の問題もなくりっぱで素敵な家に暮らしていたことでしょう。そこに違いはみつからなかったと思います。けれども、想定外の問題は突然起こってくるのです。その問題を乗り越えられるかどうかの分かれ目が、土台の違いだとイエス様は教えてくれたのですね。
 「イエス様のことばを聞いて実行する人」が、岩の上に家を建てた人です。「聞くだけで実行はしない人」が、砂の上に家を建てた人です。皆さんはどちらに近いでしょうか?イエス様は賢い人として歩みましょう、と呼びかけておられます。
 みことばを実行すると言っても、「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」と考えるだけではつらくなります。神様は私たちのことを大好きで、幸せにしたいと思ってみことばを下さっています。そのことを忘れずに、みことばをよく聞いて実行して行きましょう。

<祈り>
 神様。みことばによってお考えを教えて下さりありがとうございます。聞くだけですぐに忘れてしまったり、自分には当てはめていない時があることをお赦しください。私には神様の守りと導きが必要です。神様のみことばを実行し、突然の問題も乗り越えて歩んで行けますようお助け下さい。御名によってお祈りします。

「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」
                                 ヤコブの手紙1章22節

<適用>

 先日、我が家の庭の隅に、バスケットボールのゴールポストが立ちました。長男の希望で、家でも練習が出来るよう設置することになりました。主人の休暇中に小久保兄が協力して下さって、長男も作業をして立てることが出来ました。「立てた」と一口で言いますが、結構な土木工事でした。地面に露出していた大きな岩を滑車で移動し、スペースを作るために木を切りました。パイプを地面に打ち込んで繫ぎ合わせ、ネットを張りました。ここまででも大変ですが、なお作業が必要とのことです。もともとはゴールポストの台がついていたのですが、今回それは使えませんでした。地面が平らでないので、不安定になってしまうからです。置くだけなら土木作業など不要です。しかし倒れることのないしっかりとしたゴールを立てたいからこそ、こんなに大掛かりな作業が必要になりました。
 私たちの人生も、平坦な場所ばかりではありません。思いがけない困難は必ず訪れます。ですからゆらぐことのない土台がどうしても必要です。イエス様は山上の説教の中で、目に見えないけれど大切な事柄を話して来られました。そしてその締めくくりもやはり、目に見えないことを取り上げられました。それは、揺らぐことのない人生の土台を持つようにとの招きです。イエス様のみおしえに耳を傾けて行きましょう。

1.行う者、行わない者

 まず目を留めたいのは、24節にある「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者」というお言葉です。イエス様はその人を「岩の上に家を建てた賢い人」になぞらえました。山上の説教では、神様が愛し赦して下さるところに幸いがあると語られました。神様が愛してくださったように他者を赦し愛することも教えてくださいました。弟子たちも、群衆も、そして私たちも「これらのことば」を聞きました。聞いた後の歩みが、問われています。よくみことばを心のうちにとどめ、行う者になること。そのことをイエス様は、私たちに求めておられます。

 災害がこの家にも訪れたように、私たちの人生にも必ず困難は訪れます。それを乗り越えるには、人生の土台を堅い岩に据える他ありません。「聞いた」私たちは、「行う者」「実行する者」となることで、堅い土台であるイエス様に守って頂けるということを改めて確認しましょう。
 もう一人イエス様が取り上げたのは、26節「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者」です。イエス様はその人を「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」になぞらえました。この家にも災害が訪れ、その結果は先ほどの家とは違って悲惨なものとなりました。土台が砂では無理もありません。よく考えれば分かるはずのことです。けれどその判断が出来ていないからこそ、「愚か」と言われてしまうのでしょう。

 教会学校の教案誌「成長」に次のような解説がありました。大変考えさせられる内容でしたので、ご紹介したいと思います。
「行わない者も未信者ではなく、主の弟子である。『聞いて』がそれを示している。…弟子としての行いはみことばを聞くまでで、そこから先は、聖書とは全く無関係の、本人独自の行動や生き方を優先してしまう―これが『行わない者』である。…本人にその自覚がなくとも、主のまなざしにおいては、『砂の上に建てる』という危険極まりない生き方。…この教えは主の弟子に対する警告となっている」

 私はこの解説に深く考えさせられました。自分独自の行動を優先し、気付かないうちに危なっかしい歩みになっていないだろうか、と心探られる思いがしました。困難の日に真価を発揮するのは、みことばに根ざした生き方という土台です。困難はそれでもやってきますが、確かな支えが約束されています。今もし困難に見舞われている方がおられるならば、初心に返ってみことばを指針とすることに努めようではありませんか。約束された支えを、困難の後に見させて頂けることを信じて、みことばにお頼りして参りましょう。

2.権威あるイエス様に従う

 山上の説教がこの例え話で終わると「群衆はその教えに驚いた」とあります(28節)。それは律法学者とは違って、誰それがこう言ったとの孫引きの話でなく、イエス様ご自身の権威による教えだったからです。弟子ではない群衆が気付くほど、イエス様は権威に満ちていたのでしょう。
 それは神であるイエス様だからこそ、語ることの出来るみことばでした。イエス様は父なる神様と共に、天地万物をお造りになったお方です。すべてをご存知でまことの知恵に満ちた私たちの主であるお方です。このお方が愛をもって私たちを導こうとしておられます。

 今週の聖句をご一緒にお読みしたいと思います。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」(ヤコブ1章22節)。
 イエス様への信仰と信頼こそが、「聞いて、行う」歩みの原動力です。あれをしなければ、これをしなければ、と文言に捕らわれてしまうと、律法主義のわなにかかってしまいます。愛してくださる主イエス様のおことばだから、大切にし信頼し従う。主はそれをお喜び下さるでしょう。そして、私たちを支えるという約束を、ご自身の権威と栄光にかけて成し遂げて下さると信じます。ですから私たちは、みことばを行う人として、歩んでまいりましょう。

<祈り>
 神様。本日で山上の説教の学びが終わりました。みことばを聞き学ぶ恵みを感謝いたします。今日改めて、みことばを行うことの大切さを教えて頂きました。他に人生の土台は存在しないことを忘れないよう、どうそお守りください。あなたへの信仰と信頼をもって、みことばを自分に当てはめて歩んで参ります。どうぞ賢い人のように歩み続けられるようお助け下さい。御名によってお祈りします。アーメン。